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2025年1月26日 (日) 00:13時点における版
函館競馬場(はこだてけいばじょう/ 英: Hakodate Racecourse)は、北海道函館市にある中央競馬の競馬場。
目次
競馬場概要
- 所在地: 函館市駒場町12-2[1]
- 駐車場: 有料(開催時1000円、パークウインズ時500円)[1]
- 入場料金: 一般席100円, A指定席 (226席)1500円, B指定席 (267席)1000円[† 1][2]
- 在宅投票システム: 詳細記事を参照
- 電話投票用競馬場コード: 02#
1896年に開場され、日本に現存する競馬場としては最も長い歴史をもつ[3](#歴史も参照)。
JRAでは、非開催時も場外発売所(場外発売時は「パークウインズ函館」と呼称)として使用している。
函館市の「避難所」に指定されており、大規模地震の発生時は駐車場が避難所として利用される[4]。
スタンド・施設
2010年より供用を開始した新スタンドには「展望デッキ[5]」が設置され、函館山や函館市内を一望できる。あわせて改修していたパドックも使用開始され、馬の脚元付近の視点から見ることが可能な「ダッグアウトパドック」が新たに採用された。
ダートコースの内側には調教用のウッドチップコースが設けられている[6]。これはかつて中央競馬に所属していたアラブ系競走馬の調教コースだったものを改修してできたもので、JRAの競馬場内にある調教施設としては函館競馬場にのみ設置されている[† 2]。このため札幌競馬開催中でも函館競馬場に滞在して調教を行う馬も存在する。このほか近隣の湯の川温泉を源泉とする「馬温泉所」も設けられており、夏季には札幌・函館開催に出走する競走馬が利用する。2019年までは、冬季に福島県いわき市の競走馬リハビリテーションセンター(いわゆる「馬の温泉」)の実質的な分室として療養を行っていた[7][8]。さらに中央競馬の競馬場では唯一となる、競走馬用の手術室も設けられている[9](2011年に大井競馬場内に手術室も含めた二次診療施設が設けられるまでは国内唯一の手術室を備えた競馬場であった[10])。
コース概要
芝コース・ダートコースともに第2コーナーから第3コーナーにかけて3.5mの高低差があり、主要4場(中山・東京・京都・阪神)を除くローカル開催の競馬場(札幌・函館・福島・新潟・中京・小倉)では最大の数値(芝コースの高低差3.5mは中京と並んで最大)となっている[11]。正面直線の中ほどからやや1コーナー寄りに設置されているゴール板から第2コーナーまでなだらかに下り、その後第3コーナーあたりまで上り勾配が続き、最後は直線に向けてなだらかに下る[11]。
芝コースは第4コーナーからゴールまでの直線が262.1m (A・Bコース)しかなく、中央競馬を開催する競馬場では最も短い[11][† 3]。1994年のコース改修工事でスパイラルカーブが導入され、コーナーが曲がりやすくなった。あわせて、芝コースに用いる芝も札幌競馬場と同様に100%洋芝へ変更された[12][† 4]。コース改修後最初の開催は1開催(当時の9月開催)限定で行われ、芝コースは芝の育成・保護のため使用せず、ダートコースのみで行った[† 5]。札幌競馬場#洋芝コースの設置とオーバーシードの技術開発 も参照
洋芝コースはパワーとスタミナを要するとされ[13]、馬により適性も異なるため道外の競馬場で結果を残せなかった馬が函館競馬場や札幌競馬場で好走する例がみられる。また、北海道の南端に位置する函館は梅雨前線の影響を受け雨にたたられやすい[11]うえ、耐久性に乏しい[11]洋芝は開催の後半になると内側の芝に傷みが目立つ[11]ようになり、タイムを要するコースコンディションとなることが多い[11]。
芝コース
- 1周距離: Aコース1626.6m, Bコース1651.8m, Cコース1676.9m[11]
- 直線: A・Bコース262.1m, Cコース264.5m[11]
- コース幅員: Aコース29m, Bコース25m, Cコース21m[11]
- 距離設定: 1000m, 1200m, 1700m, 1800m, 2000m, 2600m[11]
- 出走可能頭数 (フルゲート): 1000m14頭, 1700m12頭, その他16頭(いずれもAコース使用時)[14]
ダートコース
現在行われている中央競馬について記す。
- 1周距離: 1475.8m[11]
- 直線: 260.3m[11]
- コース幅員: 20m[11]
- 距離設定: 1000m, 1700m, 2400m[11]
- 出走可能頭数 (フルゲート): 1700m14頭[15], その他12頭[14]
歴史
函館競馬の変遷
1853年(嘉永6年)にペリー提督が率いるアメリカ東インド艦隊が日本の開国を求めて浦賀沖に来航したことを契機として、翌年に江戸幕府との間で日米和親条約が締結され、1859年(安政6年)に箱館(現:函館)が開港された。自由貿易港として開港された函館では西洋文化がいち早く入り、1862年(文久2年)頃には祭典余興として、競馬に似たものが行われていた記録が残っている[16]。1875年(明治8年)に招魂社(現:函館護国神社)例大祭の祭典競馬として、蓬莱町の道路に柵を仮設して行われた競馬が、函館競馬の始まりとされる[16]。
1879年(明治12年)の函館大火で翌年の招魂社競馬は中止され、意気消沈した住民を励ますために競馬場開設の構想が持ち上がり、当時の函館県令だった時任為基の尽力により1882年(明治15年)に函館海岸町競馬場が開設され、翌年には函館大経らによって北海共同競馬会社が設立、それまでの祭典競馬とは異なる近代競馬に近い形態の競馬が行われるようになった。函館海岸町競馬場は1896年(明治29年)に現在地へ移転し、数度のコース拡張を経て現在の函館競馬場となった[16]。
初期の主催・運営者だった北海共同競馬会社は1887年(明治20年)に設立された有志競馬会との合併を模索し、「函館共同競馬会」を設立。「函館競馬会」に改称されたのち、1910年(明治43年)に「函館競馬倶楽部」に改称され、補助金競馬から(旧)競馬法の時代に函館競馬を主催。1936年(昭和11年)に(旧)競馬法が改正されると、函館競馬倶楽部は解散し、「日本競馬会」に統合された[17]。日本競馬会は戦後にGHQの指摘を受け解散し、国営競馬を経て1954年(昭和29年)に設立された日本中央競馬会に引き継がれ現在に至っている[17]。
開設時のコースは1周550間 (≒1000m)だったが、1903年(明治36年)には660間 (≒1200m)に拡張[17]。1909年(明治42年)には880間 (≒1600m)に拡張された[18]。
函館での障害競走
脚注
注釈
- ↑ 指定席料金には入場料100円が含まれる。
- ↑ 地方競馬のホッカイドウ競馬では、門別競馬場の馬場内にウッドチップコース、敷地内に冬季も利用可能な屋内坂路調教コースがある。
- ↑ ただし、第4コーナーから第1コーナーまでの正味の直線距離は札幌競馬場よりも長くなっている。
- ↑ 芝コース改修前の路盤は芝の生育を最優先に考え、野芝に畑の黒土という構成であったが、この路盤では晴天が続くとカラカラに乾いた硬い馬場になり、逆に雨が降ると水はけが悪いために泥んこの不良馬場になっていた。1988年に函館記念 (JRAGIII) でサッカーボーイが記録した芝2000mのレコードタイム(1分57秒8)は当時の日本レコードとなる破格のタイムであったが、この硬い馬場もひとつの要因である。
- ↑ 当時8月にあった第1回開催相当分は3回札幌開催として振り替えられ、函館記念も札幌競馬場で施行された。
出典
- ↑ 1.0 1.1 函館競馬場:アクセス・営業時間案内 - 日本中央競馬会、2014年7月25日閲覧
- ↑ 函館競馬場: 指定席 - 日本中央競馬会、2014年7月25日閲覧
- ↑ 函館競馬場 - 日本中央競馬会、2014年7月25日閲覧
- ↑ 避難所マップ(函館市街)PDF - 函館市、2014年10月14日閲覧
- ↑ 函館競馬場: 主な施設 テンプレート:webarchive - 日本中央競馬会、2014年7月25日閲覧
- ↑ 函館競馬場:全体マップ - 日本中央競馬会、2014年7月25日閲覧
- ↑ はじめまして、函館競馬場です! - 馬の温泉だより・2008年4月10日
- ↑ 函館競馬場での冬季温泉療養が終了 - 馬の温泉だより・2020年11月6日
- ↑ もう一つの函館競馬場にしかないもの、それは… - 馬の温泉だより・2012年7月13日
- ↑ (2011-07-11) 地方競馬初 二次診療施設の設置について 特別区競馬組合 2011-07-11 [ arch. ] 2013-07-02
- ↑ 11.00 11.01 11.02 11.03 11.04 11.05 11.06 11.07 11.08 11.09 11.10 11.11 11.12 11.13 11.14 () 函館競馬場 日本中央競馬会 [ arch. ] 2014-06-28
- ↑ 通年緑化とオーバーシード法の技術開発 - JRA競走馬総合研究所、2014年7月23日閲覧
- ↑ "野芝"か"洋芝"か、それが問題だ(前編) - ガラスの競馬場、2014年7月19日閲覧
- ↑ 14.0 14.1 平成26年競馬番組一般事項(III:出走可能頭数 - 函館競馬場)PDF - 日本中央競馬会、2014年7月21日閲覧
- ↑ 上半期の古馬中長距離GI3連勝で褒賞金2億円サンケイスポーツ、2016年11月22日閲覧
- ↑ 16.0 16.1 16.2 テンプレート:Cite web2
- ↑ 17.0 17.1 17.2 日本中央競馬会1968、342-347頁。
- ↑ 日本中央競馬会1968、328頁。
参考文献
- 日本中央競馬会 (1968) 日本中央競馬会 [ ] 日本競馬史 第3巻 日本中央競馬会 1968
- 日本中央競馬会 (1972) 日本中央競馬会 [ ] 日本競馬史 第6巻 日本中央競馬会 1972